人生っていうのは積み重ねられていくもので、「リセットする」なんていう比喩表現があるけど、そんな簡単にやり直しは効かないものだ。「人間は変われる」。そう、確かに人間は変われるのだけど、その変わるべき対象というか課題が大きければ大きいほど、それには圧倒的な覚悟と、継続的な努力と、ある程度の時間が必要なんだと、思う。変わる、ということは、積み重ねてしまったものを一度壊して、新しく何かを積み上げていく作業だから。
自分以外の人間から「変わりなさい」と言われる場合、それは、それを望む人間にとっての「スタンダード」に達していないから、努力して達するように、という意味であり、スタンダードに達していないということは「理解できない、ありえない」ということの表現である。もっと言えば、ともに生活(あるいは仕事)をするに値しない状況である、醜悪である、嫌悪している、ということであるとも言える。また、繰り返し言われ続ける場合は「早急にやれ」ということである。
パパは、ママからいろんな点について「変わってくれ」と言われている。上に書いたとおり、それは結構大変なことで、でも、ママに捨てられたくないから、できることならママにいっしょにいてほしいと心から思っているから、ちょっとずつ、少しずつではあるのだけど自分を変えていっている、つもりである。ママは多分「なんですぐにできない、やらないんだろう」と真剣に不思議に思っていて、それはきっとストレスになっている。だから何度も、本当はそんな下らないことを指摘・指図したくないのに、なかなか変わらないパパを見て、仕方なく言い続けている。
このことについて、この状況について、本当に、大変申し訳なく、思う。消えてしまいたい、と思う。もう少し言うと、もしかしたらパパはここにいてはいけない、ママと(そして、きみと、ね)いっしょにいてはいけない人間なのではないか、とさえ思う。実際のところ、そうなんだろう。さっきも「今年中に歯を全部治せ」と言わせてしまった。もちろん、初めて言われたわけじゃない。10回目くらいだろうか。10回言われる、ということは、多分1000回くらい「治せ」って思われているんだと思う。申し訳ない。「今年中に歯を全部治せ」というのは、「今年中に歯をきれいにできないような人間と一緒にいるつもりはない」ということなんだろうと思う。すべての指摘・指図を、パパはそういうふうに受け取っている。がんばろうと、思う。
ところで、小学校の頃、パパの家は、なんでかはよくわからなかったんだけど、とても貧乏だった。どれくらい貧乏だったかというと、給食費、たぶん月に数千円程度だったと思うんだけど、それが払えないくらい。毎月のように先生から、皆のいる前で「催促」された。それがどういう意味か、完全に理解できていなかったけど、「なんとなく、自分は劣っているんだ」ということは分かった。あと、蔑まれている、ということも。
中学校に上がる頃には、世界を理解する能力がもう少しあがって、「うちにはお金がないんだ」と強く思うようになった。部活で遠征をする機会があったりすると、調子が悪いと嘘をついて休んでいた。電車賃がかかるし、それをください、と親に言う勇気は、もう持ち合わせていなかった。部活は休みがちでも、身体が大きくてそれなりに運動神経が良かったから、レギュラーになった。遠征に行かないのにレギュラーである、という、中学生的偏狭な世界観の中からはみ出した少年パパは、当然のごとくいじめられた。「お前遠征来いよ」何度も言われた。暴力的に指摘・指図、された。「お金がない」ということをいうのには勇気が必要で、それを言ってしまったら何かが壊れてしまうような気がして、言えなかった。耐えるしかなかった。居場所は、なくなった。
ほっといてくれよ、と心から思っていた。頼むから、おれにかかわらないでくれ、って。この世からいなくなる勇気はなかったし、学校を、特に義務教育の間のそれを辞める、っていう発想も、なかった(今のパパの知識があったら、音速で辞めていたと思うけどね)。辛かったし、悔しかった。のんきに楽しく生活している奴らがたくさんいるのに、なんでおれだけ、って毎日、毎時間、毎分思ってた。どこで間違えたんだろう、って思ってた。おれ、人気者だったはずだろ、って。スポーツもできた、1年の時は学級委員だし、1年の後期から生徒会(全校生徒からの投票で決まるやつ)なのに、なんでおれはこんな状態になっているんだ、って、毎秒思ってた。
息を殺して、時間が過ぎるのだけを、ただ、待った。
2年間。短くはなかった。
高校にあがって、少し経ったくらいで、だんだんとそういう鬱屈とした気持ちは消えていった。何がきっかけというわけではないのだけど、多分なにかを諦めたんだと思う。そう考えると、中学校までは、何かに期待を持っていたのかしら、って思う。まあ、そりゃそうだ、ヒーローもののドラマとか、マンガとか、どっかから正義の味方がやってきて、いじめられている主人公を救ってくれたり、実はその主人公が特殊能力の持ち主で、いじめっこを成敗するだけじゃなくて世界を救ってみたり、もうちょっと下世話な設定だったら、怪我をしている犬を助けたらその飼い主が実は大金持ちで、みたいなさ。そういうことをちょっとだけ信じてたんだと思うよ。で、高校に上がって、教科書が分厚くなって、「正解」がわかってきて、そんな期待も持ってられないなあ、という感じで、いろいろ諦めたんだと思う。気が楽になったよ。無理なものは無理だ、って。
37年弱の人生で、ダントツで辛かったおよそ2年間。未だに、何だったんだろう、って思う。で、指摘・指図されると、あの頃のことをよく思い出す。同時に、結局、あの場所、いや、居場所がない、あの状況から、おれは逃げ切れないんだろうな、とも思う。もう少し言えば、まだ、その場所にいないといけない人間なんだろうな、って思う。おとなになって、もう少し具体的には、家を出て、一番うれしかったのは、多分そういう人がたくさんいると思うけど、いきなり指摘・指図されるようなことがないことだ。好きなだけゲームができる、好きだなだけマンガを読める、好きなだけ寝ていられる、そういう状態だ。おとなとは、そういうことだと、勘違いしていた。それは「ひとりで生きるおとな」に与えられた権利だ。
結婚する、家族になる、一緒に暮らす、ということは、そういうことでは、多分ない。ママがパパに対して指摘・指図するのは、大げさに言えば、運命であり、宿命だ。それは、いいことであるとか、正しいことであるとか、あるいは間違っているとか、そういう領域を超えた存在のものなんだ。諦めを経て、長い時間をかけて、パパは、中学校の頃に戻ってきたんだ、と思う。今度こそ逃げずに、ほっといてくれよ、とイジケずに、ちゃんと立ち向かおうと思う。それがきっと、「普通」だし、少なくとも、ママの望む「スタンダード」だ。正直に言えば、そこにどんな価値があるのかよくわからない、でも、きっと、何かがあるんだろう。だから、まず、次の休みに、歯医者に行こうと思う。